厚生と幸福

人の望みとよろこび

共感

 ひとと真剣に向き合っているひとというのはすこし話しただけでそれとわかるもので、私のように日頃から人間関係をおろそかにし続けている者からすると、そうした人間にめぐり合うたび暗澹たる思いに駆られる。では〝真剣に向き合っている〟というのはどういうことかというと、相手の望むものや望まないものについて一生懸命に考えたうえで、自分に何ができるのか、何を与えられるのかを実践し続けているようなこと、などではない。私はひとと真剣に向き合うことを、〝相手を自分のように考えること〟を諦めていないものだと思っている。私はすでに諦めてしまったというわけだ。
 慈愛のメカニズムについて、私はそれを根本的に自己愛でしかないことがほとんどだと考える。つまりあなたが誰かを愛するとき、あなたはその誰かをあなた自身だと思っているにすぎないということだ。私は誰かを自分のように思うことができないのだと思う。たいしたことではない、自分のように誰かを愛せないのであれば、自分とは異なる誰かを愛すればよい、と考える人もあるだろう。じっさい、私も自己愛でしかない慈愛が〝ほとんどである〟と書いたとおり、自分ではない誰かの非-自己性、あるいは他者性を好ましく思うこともある。問題はそこではない。
 いわゆる共感の欠如ということのできそうなこの問題のもっとも大きな点は、慈愛ではなく加害にある。他者を自己のように考える思考は、他者への憎悪や攻撃性をある程度やわらげるのだ。相手も自分のように痛みを感じるとか、相手は攻撃されたら自分のように傷を負うといったことさえ、私には直感的に考えることができない。ただ論理的に類推しようとするはたらきによって、そうとわかるばかりである。
 誰かを自分のように感じることができないのは、そうすると私まで痛むからだと思う。誰かの痛みや苦しみを私のもののように感じて痛んだり苦しむことに疲れてしまった。ひるがえって誰かの幸せや喜びを楽しんだり喜ぶことも。そうして感情が矯正されてゆくような感覚に耐えられない。
 いつか私が自分ではない誰かを、自分ではないからという理由で、とりかえしのつかないほどに傷つけてしまわないか、そのことだけが私の心をひどく陰鬱にさせてゆくのだ。