厚生と幸福

人の望みとよろこび

Tant crie-t-on Noël qu’il vient.

 記事タイトルはフランス語の持ってまわった言い回しのひとつで、「クリスマス、クリスマスと盛んに叫んだのでとうとうクリスマスがやってきた」という言い方が、転じて「ずっと待ち続けていたら[その話をしていたら]とうとう望みがかなった」という意味を持ったものだ。

 叫ばなくてもクリスマスは来るし、私にとっては叫んで待つほどありがたいものでもない。しかしキリスト教圏のクリスマスは、かつてはいうまでもなく、いまでも特別な意味を持ち続けているのだろう。

 さて、クリスマスが今年もやってきた。ブログというものは本来的に自分語りのために用いられてき、また用いられてゆくメディアであるから、私にとってのクリスマスについてもう少し話すと、さっきは素っ気なく斜めに構えてありがたくもないとか言ったが、今年は少しだけ例年と違った。

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19クリパ

 大学の目の前の和菓子屋っぽい名前の洋菓子屋で買ってきたケーキと、ルピシアのフレーバード・ティーだったと思う。友人とクリスマスパーティーをしたのはどれぐらいぶりだろう。それもこれほどに心から遠慮なく楽しめたパーティーをしたのは。最近はフランス文学研究室の同期と後輩と友誼を深めている。

 不思議なことに私は研究室でも、ゼミでも威圧的な態度をとっており、決して付き合いやすい人間であろうと振る舞っているつもりはなかったし、客観的に見てお世辞にもいい先輩とは言えない。ツイッターを見ている人ならわかってくれるかもしれないが、むしろゼミ自体の取り組みのレベルを上げるためなら、憎まれ役にでもなろうと努めてきたつもりであった。

 しかし不思議と彼らは私のことを受け入れてくれ、六人くらいでひとつの家に集まって、持ち寄った食事やお酒を飲み、スマブラをし、ケーキを食べるような、本当に楽しい時間を一緒に過ごしてくれた。胸裡に去来したのは「私にはまだこれほど人に裏表なく親愛の情を感じることができるのか」という驚きと喜びだった。

 彼らの中でもとりわけ親しい後輩の一人と話していたときに、こんな話があって興味深かったので書いておく。

 私は彼を、誰にでも気さくに接し誰にでも等しく優しくできるような、人に嫌われない人徳のある人だと思っていて、後輩ながら人間として尊敬するほどなのだが、その彼が私に言った。自分は誰にも嫌われたくないから、誰かを嫌いにならないように努めているだけだよ、と。私はなるほど納得しかけたが、それは当たり前のことだと思いなおし、誰にでも考えつくその生き方を実践できることが偉いんじゃないか、と答えた。そうしたら、彼は私について、あなたは誰かを嫌ったり、嫌われることを恐れないね、その振る舞い方も自分にはできないから、すごいと思うよ、と言った。

 私は自分について、確かに「誰かに嫌われること、ひいては誰かを嫌うことを恐れない」ことを指針として生きてきたつもりだった。そしてそれをわかってくれている人がいて、そのうえで私と過ごすことを選ぶほどには私を好いてくれている、そう思うと胸が暖かくなった。

 相互理解はできないと思う。コミュニケーションは必ず失敗する。バベルの塔とはよく言ったもので、呪わしいほどに人はわかりあえず、憎みあう。だがふとした瞬間に、たとえ本当に他人を理解できていなくとも、わかりあえたかどうかは傍におくとしても(本当にそうであると断ずることができないという諦観)、相手は私をわかってくれているのだ、という優しい誤謬を抱くことができる。この「勘違い」は不正確な人間がたびたび起こすエラーのなかでもとりわけ厄介だ。だって人を愛してしまうようになるのだから。