厚生と幸福

人の望みとよろこび

線の上で

 髪を切りたくなってきた。当たり前だが思えばずいぶん外に出ていない。外出自粛の時勢をみれば私は模範的かもしれないが、本当はただ出不精なだけかもしれない。家の中ですべてが完結する生活。ふだんのあれだけ忙しく出歩いては家には寝に帰るだけの生活が嘘みたいだ。本当は家を出る必要なんかないのかもしれない。

 書を捨てよ、街へ出よう。みんな引きこもりの生活のなかで少しずつ気付かないうちにおかしくなってゆく。自分がおかしなことに気がつかないまま、おかしくなってゆく。髪を切りたい。思いきって短くしたい。ベリショのレア・セドゥみたいに。

 私たちは孤独に耐えられない。就活はただでさえつらい。説明会はぜんぶ中止になってしまった。「就活そのものもぜんぶ中止になればいいのに」となおちゃんが言ってた。そのとおりだ。モラトリアムは長ければ長いほど良い。バイトも一ヶ月まるまるお休みになってしまったけど、勉強なんかする気にならない。髪を切りたいのだ。

 でも私があのころのレア・セドゥみたいにベリショにしたら、彼女のようにフェミニンな魅力を残したお茶目な感じにはならないかもしれない。男の子みたいに可愛げのないただの短髪になるのはいやだ。でも髪型は思いきって変えたい。何かを思いきって変える必要があると感じている。

 窓の外をみると桜の木が見事に咲いていたあの春先にはまだまだこんな不安はなかったし、予想すらしなかった。私の部屋の庭にある立派な桜。あんまり桜は好きじゃないけど特にソメイヨシノはちょっと下品だなと思うときさえあるけど、桜を見ている自分は好きだ。みんなそんなものじゃないかな。花見をする人たちのうちどれだけがちゃんと花を見ているんだろう。今年は花見ができなかった。外だし、そんなに密集することもないからできると思ってはいたんだけど、世の中のムードというのは度し難い。

 なおちゃんからビデオ通話でする飲み会というのに誘われた。寂しいし顔だけでも出してよと言われたけど、私は断りたかった。だって顔をみるともっと孤独になる。結局なにかと理由をつけて断った。つながりたくなかった。誰かの存在を意識するとつらい。誰ともつながっていない自分がつらい。

 桜の花だけだ。もう散りかけて緑の葉がちらちらとみえる桜の木だけだ。私とつながっているのは。それでじゅうぶんなのだ。

 卒論のテーマをきめなきゃならないといって、先生が進捗報告のメールをくださいと連絡してきた。私はぎりぎりまで迷って期限すれすれにメールをした。洗濯ものがたまってゆく。誰とも会わないからいいか。洗濯も自粛モードだ。

 無限に内側へと指向する閉塞感に息ができなくなりそうだ。髪を切りたい。とにかくこの長い髪を切り落として、わずかでも自傷的な快楽を得たり、首を締めあげるみえない手の甲を切りつけたい。レア・セドゥの出てたハリウッドのあの暴力的な映画みたいに、すかっとするほど何かを壊したい。人や、物や、空気や、歌や、物語を。

 それでも私には自分でたった数センチの前髪を切る勇気がないのだった。

殉教

 独り暮らしでなくて良かったと切に思う。ここ数日は学生寮の友人たちと談話室に集まって各々の勉強をしたり、いつものようにスマブラをしたり、若干の季節外れの感もあるがもつ鍋をしたりして楽しく過ごしている。

 SNSをみるに、友人で独り暮らしの者は孤独と暇を持て余して、流行りのオンライン飲み会だの、ままならない就活からのプレッシャーに怯えてみるだのしているらしい。自分が独りなら彼らに倣っていただろう。独りの時間は精神衛生上欠かすことのできない重要なものだが、孤独はもっと毒だ。死んでいてもおかしくないのだ。

 卒論のための本を読んで、スマブラをして、ドラマを観て、適当にめしを済ませて、スマブラをして、朝がたにねむる、昼ごろには友達が起こしに来てくれ、勉強をして、スマブラをして、めしを食う。平時より張りのある生活をしている気さえしてくる。ツイッターにいる時間が減っているのが何よりの証拠だ。

 いまはスタンダールを読んでいる。卒論は肉体的な快楽と精神的な愛、あるいはキリスト教といったことにフォーカスしてみようと考えている。スタンダールは大のイタリア好きで、初期の中短編にはイタリアの古写本から翻訳、翻案したものがいくつかあり、イタリア年代記とよばれているが、『カストロの尼』という短編小説が白眉だ。

 みじかい小説なのであらすじをここに書くこともせず、気軽に読んでみることをつよく勧めるが、けだし傑作である。スタンダールの最高傑作であると位置づける向きもあるほどだ。『赤と黒』や『パルムの僧院』にもむろん目を見張るべきスタンダールの小説作法が光っているが、それらは長編小説としての魅力であり、『カストロの尼』には短編小説だからこその誤魔化しの利かない巧拙が立ち現れている。

 『チェンチ一族』には、なんの罪もないはずの貞節でうつくしい女が、どうしようもない運命から裁かれ死を余儀なくされ、神とともに斬首を受け入れる場面がある。信仰の篤い女の祈りが処刑人の斧によってぷつりと途絶えるこの瞬間は、鳥肌がたつほどうつくしいのだった。

 『サン・フランチェスコ-ア-リパ』はイタリア女とフランス人との恋愛を描いたとされているが、個人的にはやさしくて信仰心の深いカンポバッソ公爵夫人が、しかし生来の悲観と根暗になやみ、従姉のオルシニ伯爵夫人の快活で屈託のない性格に憧れるその感情に惹かれた。最後の結びかたもうつくしい。

 さて、ブルボンの濃厚チョコブラウニーというチョコレート菓子が大学生協でかなり売り出されていたのを覚えていた人もあるかもしれないが、私はこれが大好きで最近はよく食べている。ミニ濃厚チョコブラウニーという名前でスーパーなどでは大袋菓子として売られているので、見かけたらぜひ試してほしい。

 いつまでこの生活が続くのかと思うと気がおかしくなりそうだ。

Tant crie-t-on Noël qu’il vient.

 記事タイトルはフランス語の持ってまわった言い回しのひとつで、「クリスマス、クリスマスと盛んに叫んだのでとうとうクリスマスがやってきた」という言い方が、転じて「ずっと待ち続けていたら[その話をしていたら]とうとう望みがかなった」という意味を持ったものだ。

 叫ばなくてもクリスマスは来るし、私にとっては叫んで待つほどありがたいものでもない。しかしキリスト教圏のクリスマスは、かつてはいうまでもなく、いまでも特別な意味を持ち続けているのだろう。

 さて、クリスマスが今年もやってきた。ブログというものは本来的に自分語りのために用いられてき、また用いられてゆくメディアであるから、私にとってのクリスマスについてもう少し話すと、さっきは素っ気なく斜めに構えてありがたくもないとか言ったが、今年は少しだけ例年と違った。

f:id:hapr:20191225050416j:plain

19クリパ

 大学の目の前の和菓子屋っぽい名前の洋菓子屋で買ってきたケーキと、ルピシアのフレーバード・ティーだったと思う。友人とクリスマスパーティーをしたのはどれぐらいぶりだろう。それもこれほどに心から遠慮なく楽しめたパーティーをしたのは。最近はフランス文学研究室の同期と後輩と友誼を深めている。

 不思議なことに私は研究室でも、ゼミでも威圧的な態度をとっており、決して付き合いやすい人間であろうと振る舞っているつもりはなかったし、客観的に見てお世辞にもいい先輩とは言えない。ツイッターを見ている人ならわかってくれるかもしれないが、むしろゼミ自体の取り組みのレベルを上げるためなら、憎まれ役にでもなろうと努めてきたつもりであった。

 しかし不思議と彼らは私のことを受け入れてくれ、六人くらいでひとつの家に集まって、持ち寄った食事やお酒を飲み、スマブラをし、ケーキを食べるような、本当に楽しい時間を一緒に過ごしてくれた。胸裡に去来したのは「私にはまだこれほど人に裏表なく親愛の情を感じることができるのか」という驚きと喜びだった。

 彼らの中でもとりわけ親しい後輩の一人と話していたときに、こんな話があって興味深かったので書いておく。

 私は彼を、誰にでも気さくに接し誰にでも等しく優しくできるような、人に嫌われない人徳のある人だと思っていて、後輩ながら人間として尊敬するほどなのだが、その彼が私に言った。自分は誰にも嫌われたくないから、誰かを嫌いにならないように努めているだけだよ、と。私はなるほど納得しかけたが、それは当たり前のことだと思いなおし、誰にでも考えつくその生き方を実践できることが偉いんじゃないか、と答えた。そうしたら、彼は私について、あなたは誰かを嫌ったり、嫌われることを恐れないね、その振る舞い方も自分にはできないから、すごいと思うよ、と言った。

 私は自分について、確かに「誰かに嫌われること、ひいては誰かを嫌うことを恐れない」ことを指針として生きてきたつもりだった。そしてそれをわかってくれている人がいて、そのうえで私と過ごすことを選ぶほどには私を好いてくれている、そう思うと胸が暖かくなった。

 相互理解はできないと思う。コミュニケーションは必ず失敗する。バベルの塔とはよく言ったもので、呪わしいほどに人はわかりあえず、憎みあう。だがふとした瞬間に、たとえ本当に他人を理解できていなくとも、わかりあえたかどうかは傍におくとしても(本当にそうであると断ずることができないという諦観)、相手は私をわかってくれているのだ、という優しい誤謬を抱くことができる。この「勘違い」は不正確な人間がたびたび起こすエラーのなかでもとりわけ厄介だ。だって人を愛してしまうようになるのだから。

共感

 ひとと真剣に向き合っているひとというのはすこし話しただけでそれとわかるもので、私のように日頃から人間関係をおろそかにし続けている者からすると、そうした人間にめぐり合うたび暗澹たる思いに駆られる。では〝真剣に向き合っている〟というのはどういうことかというと、相手の望むものや望まないものについて一生懸命に考えたうえで、自分に何ができるのか、何を与えられるのかを実践し続けているようなこと、などではない。私はひとと真剣に向き合うことを、〝相手を自分のように考えること〟を諦めていないものだと思っている。私はすでに諦めてしまったというわけだ。
 慈愛のメカニズムについて、私はそれを根本的に自己愛でしかないことがほとんどだと考える。つまりあなたが誰かを愛するとき、あなたはその誰かをあなた自身だと思っているにすぎないということだ。私は誰かを自分のように思うことができないのだと思う。たいしたことではない、自分のように誰かを愛せないのであれば、自分とは異なる誰かを愛すればよい、と考える人もあるだろう。じっさい、私も自己愛でしかない慈愛が〝ほとんどである〟と書いたとおり、自分ではない誰かの非-自己性、あるいは他者性を好ましく思うこともある。問題はそこではない。
 いわゆる共感の欠如ということのできそうなこの問題のもっとも大きな点は、慈愛ではなく加害にある。他者を自己のように考える思考は、他者への憎悪や攻撃性をある程度やわらげるのだ。相手も自分のように痛みを感じるとか、相手は攻撃されたら自分のように傷を負うといったことさえ、私には直感的に考えることができない。ただ論理的に類推しようとするはたらきによって、そうとわかるばかりである。
 誰かを自分のように感じることができないのは、そうすると私まで痛むからだと思う。誰かの痛みや苦しみを私のもののように感じて痛んだり苦しむことに疲れてしまった。ひるがえって誰かの幸せや喜びを楽しんだり喜ぶことも。そうして感情が矯正されてゆくような感覚に耐えられない。
 いつか私が自分ではない誰かを、自分ではないからという理由で、とりかえしのつかないほどに傷つけてしまわないか、そのことだけが私の心をひどく陰鬱にさせてゆくのだ。

憂鬱

 昨日、稽古が始まった。本読みや舞台稽古をするより前に私の所属しているサークルでは暖気と発声のための一定のワークをこなす習慣になっている。まったく100年ぶりくらいに外を走ったり腹筋をしたりしたところ、完全に身体がやられた。咳やくしゃみをすると腹筋に鋭い痛みが走って限界だ。覚悟していたことだが、運動不足は本当によくない。

 まるまる一年半ぶりに役者として舞台に乗る。ほとんど自分が役者だったことを忘れていた、というか、二度と演じることもあるまいとさえ考えていたこともあった。今回私に与えられた役はまさに私だと思える役で、稽古場にはこれ以上ない喜びがある。文字通りこの稽古場に私よりふさわしいものはないだろうと思えるような役とめぐりあえてよかった。このことだけでほとんど今回の公演は、私についていえば成功だ。あとは実直に役との対話と稽古を重ねていくのみである。

 ツイッターでしばらく悩みを書き込んでいたことだが、キスシーンについては考えるのをやめることにした。舞台役者として真摯に向き合うならば、雑念を振り払ってその役の人物としてキスをするよりほかにないわけだし、相手役が仮にそうできなかったとしても私に非はないはずだ(と、信じることによってなんとかやっていく)。私が私の相手役でも私とはキスしたくないので、したくないものを前提に役者として障壁を乗り越えてくれることを、私の相手役には期待する。これ以上はだんだん落ち込んでくるのでやめる。

 

 今日は試しに好きな曲を紹介してみる。私の私生活の話ばかりでは読者に退屈させるかもしれないから。

 Angèleはベルギー人の歌手でフランス語で歌っている。そのかわいらしいルックスに反してかなり挑発的な皮肉を含んだ曲を数多く発表しており、いまもっともフランスで注目を集めている歌手の一人だろう。

 Clip officielをみてほしい。

Angèle feat. Roméo Elvis - Tout Oublier [CLIP OFFICIEL] https://youtu.be/Fy1xQSiLx8U

 冒頭にしめされるのはBaudelaireの肖像画である。これと照応するのはこの曲のRefrainの歌詞なので、すこし引用してここにしめす。

Le spleen n'est plus à la mode
C'est pas compliqué d'être heureux
Le spleen n'est plus à la mode
C'est pas compliqué

 Le spleenとは「脾臓」という意味の英語から借用されたフランス語で、かつては脾臓に不機嫌や憂鬱といった感情がやどると考えられていたことから、フランス語では憂鬱という意味でもちいられる単語である。

 あえて訳すなら、

憂鬱なんてもう流行らない

幸せになるのは複雑なことじゃないよ

憂鬱なんてもう流行らない

難しくないよ

 といったところだろうか。

 かつてはBaudelaireの詩がもてはやされ、世紀末のロマン派たちの憂鬱や複雑な感情が文学として受け入れられていた。しかし現代はもはや、複雑なことがむしろ忌避され、考えかたひとつで、気持ちひとつで幸せになれる、というような言葉がしんじられている。

 「難しく考えずに幸せになりなよ」とか「幸せになるのは難しいことじゃないんだよ」といったせりふを聞いたことが、誰しも一度はあるように思う。 それが本当かどうかはともかく、Angèleがこうした「単純な幸せ」を信奉する人々を痛烈に皮肉っていることは確かだ。

 ほかにもおもしろい曲はたくさんあるので、また機会があれば紹介したい。

懶惰

 同期の三人で合同製作していた脚本がひとまず完成した。集まれないときは定期的に電話会議をするなどかなり時間をかけてつくってきた脚本だった。おもしろいものができたと思う。あとは稽古場での役者とのコミュニケーションをとおした新しい発見と、実践によってさらにいい芝居にするためにますます邁進するのみだ。

 この三人が集まると適当に酒を飲んで適当に何か映画を観たり、アニメを観たりしているうちに、二日連続でだらだら酩酊のなかに留まり続けるようなことがよくある。今日も酒を飲みながら、ラブライブ!サンシャイン‼︎の一期をむりやり他の二人に視聴させながら、キャラクターの心情のことなどについて大声でくだを巻き、最後には泣きながら三年生たちが仲良くなって良かった、とかぶつぶつ言いながら寝ていた。見せていたうちの一人は早い段階で寝ていた。残りの一人はかなりハマったらしく、二期も観ると言ってくれたので、有意義な夜だった。

 しかしそれはそれとして、ほぼ同じ時間に寝たはずの(あるいは私よりも遅くまでアニメを観ていたはずの)ヤツが私より早く起きて二限に出席したにもかかわらず、私はそいつの家から帰宅してまた眠り、四限にすら出ることはかなわなかった。本当に好きな講義だったにもかかわらずである。

 私はいま、痛烈に反省している。明日こそは大学に間違いなく出席するだろう。だが今日の講義は二度と訪れない。悔やんでも悔やみきれない。

 つらい気持ちを紛らわせるために私もラブライブ!サンシャイン‼︎の二期をみかえそうと思っている。やはりラブライブ!サンシャイン‼︎はいいアニメだった。そしていまでもいいアニメであり続けている。

 高海千歌が「ただスクールアイドルになりたいだけの普通の女の子」としてスクールアイドルを目指してくれて、本当にありがとうという気持ちと、Aqoursのみんなが彼女を支えてくれたことに本当にありがとうという気持ちが、私の心を深い感傷にしずめている。

統治の教場

 我がフランス文学研究室にはお世辞にも優秀な生徒が揃っているとはいいがたい。私はまったく勤勉で能力もあり、教室内の治安維持にも努めているつもりであるが、私一人のわずかな尽力では、愚かなる学生たちを前にすれば焼け石に水を注ぐようなものである。

 私がもっとも憂慮しているものは、学生たちのフランス語の能力である。我が研究室はいうまでもなくフランス文学の研究を行っているが、同時に実践的な文学テクストの原典を読みすすめる力を身につけるための、実用フランス語の学習も日頃からつよく奨励されている。

 しかし、学生たちはとにかくフランス語ができない。彼らのフランス語能力についてはまったく嘆かわしいものである、といわざるをえないだろう。

 教場ではほとんどテクストの講読によってフランス文学研究の能力を養成されている。学生たちが原文テクストを朗読してから、そののちに各々に作成してきた訳文を読みあげる形式だ。こうした過程において、学生たちの稚拙なフランス語を読み聞かされることは非常なストレスである。

 フランス語は美しい言葉だ。世界でもっとも美しい言葉のひとつだ。音楽的に流麗かつ論理的に明晰であり、そのことはフランス語の擁護者たち、改革者たちの不断の努力によってつくりあげられ、保たれてきた。そのフランス語の美学が教場では粉々に粉砕されている。一日たりとも欠かすことなくだ。

 散文テクストならまだ許せる。つっかえつっかえ立ち止まりながら読む学生の拙劣な音読も、読まれているテクストが散文であるなら辛抱できないこともない。しかし未熟な学生に詩が読まれるときは、思わず耳を塞いでしまう。

 私が学部を卒業するのが早いか、稚拙なフランス語を話す学生がたまらなくなって教場から逃げ出すが早いか、私にもわからないことであるが、心配である。